世界の見方の転換 2

キリスト教を受け入れる以前のローマ帝国では、
とくに初代皇帝アウグストゥス以来、太陽神がひろく信仰されていた。
3世紀後半、皇帝アウレリアヌスは「不滅の太陽(Sol invictus)」を
最高神としてその崇拝を国家祭祀に組み込んだ。キリスト教も、
キリスト降誕祭(クリスマス)をローマの太陽崇拝の祭日12月25日に
設定することによって、太陽崇拝を継承した。しかしローマの宇宙論
キリスト教の世界像もやはり地球を中心とする天動説であり続けた。
地上の世界と天上の世界という二元的世界像に立脚しているかぎり、
太陽崇拝や太陽中心理論は、近代的な意味での地動説・太陽静止説には
結びつかないのである。

コペルニクス改革における真に決定的な飛躍、真に革命的な側面は、
たんに太陽を中心に置き地球を動かしたことではない。
神学的な観点では、コペルニクス改革の要諦は、地球を惑星に
仲間入りさせ高貴な天体と同列に扱ったことにより、
天上から地上へと連なる貴賎のヒエラルキーを破壊したことにあった。

人間にとって善とは何か

人間にとって善とは何か: 徳倫理学入門 (単行本)

人間にとって善とは何か: 徳倫理学入門 (単行本)

生政治の誕生

ミシェル・フーコー講義集成〈8〉生政治の誕生 (コレージュ・ド・フランス講義1978-79)

ミシェル・フーコー講義集成〈8〉生政治の誕生 (コレージュ・ド・フランス講義1978-79)

自由主義の根本的な問い、それは、
交換こそが事物の真の価値を決定するような一つの社会において、
統治および統治のあらゆる行動の有用性の価値とは
いったいどのようなものになるのか、という問いです。

もう一つのおそらくより重要な、そしてより重大な理由があります。
それはすなわち、国家は本質を持っていないということです。
国家は普遍的なものではありません。国家、それは、不断の国家化ないし
不断の数々の国家化によってもたらされる効果であり、その外形であり、
その動的な切り抜きに他なりません。国家とは、財源、投資の様式、
決定の中心、地方権力や中央官庁のあいだの関係といったものを、
変容させたり、ずらしたり、混乱させたり、ひそかに滑りこませたり
するような、絶え間ない取引によって生じる効果であるということ、
要するに、国家には血も涙もないということです。国家には血も涙もない、
とは、国家には内部がないという意味でもあります。国家、それは、
多数多様な統治性の体制によってもたらされる動的効果に他ならないのです。

問題は、その基本単位がまさしく企業の形式を持つような
社会の骨組みを構成することです。別の言い方をするなら、
問題は、「企業」形式を可能な限り伝播させ増殖させつつ
一般化することです。「企業」形式とは、国民的ないし
国際的規模の大企業という形式、あるいは国家タイプの
大企業という形式のもとに集中させられてはならないものです。
社会体の内部において、このように「企業」形式を波及させること。
これこそが、新自由主義政策に賭けられているものであると
私は思います。問題は、市場、競争、したがって企業を、
社会に形式を与えるチカラのようなものとすることなのです。

黄金伝説 1

黄金伝説 1 (平凡社ライブラリー)

黄金伝説 1 (平凡社ライブラリー)

キリスト教は本来神話や伝説に乏しい、と言うよりむしろ
反神話的な宗教であったが、やがてユダヤ以外の世界、
ことにヨーロッパ的世界に進出しはじめると、ここは
百花繚乱たる神話や伝説の花園であった。
キリスト教がこの神話的花園の中で地歩を築くためには、
ユダヤ世界の救済教義だけではどうにも手の施しようがなく、
みずからを非キリスト教化し、神話化せざるをえなくなった。


けれども、神々と英雄が存在しないところには、
神話は成立しない。これは一神教の宿命である。
そこで、キリスト教の空想力は、信仰と受難の英雄たち、
つまり聖人や殉教者と呼ばれる人物たちの言行や生涯を伝説化し、
神話化する道を選ぶことになる。聖人伝説こそ、神々や英雄を
もたないキリスト教の空想力が生み出した神話文学なのである。